パソコン絵画徒然草
== 奈良散歩記 ==
第1話:奈良公園周辺 |
![]() 2回目の地方転勤で暫しこの休日画廊をお休みにしていたが、その間、大阪で暮らしていた。大阪は東京に次ぐ第二の都市で、暮らす分には東京にいるのと遜色ない。健康管理を兼ねた週末の散歩も天候が許す限り続けていた。 週末の散歩といっても、私が住んでいた周辺はビル街で味気ないため、しょっちゅう遠出をしていた。大阪の良いところは、1時間程度で京都にも奈良にも神戸にも行けることだ。東京からだと観光旅行で行くようなところに、思い立ったらすぐ行けるという地の利を活用しない手はない。 おそらく初めての関西生活で私と同じような立場になったら、多くの人は真っ先に京都に向かうのだと思う。しかし、私は大学時代の4年間を京都で過ごしており、是非とも京都へという熱意が薄かった。そのうえ京都は碁盤の目状の街並みゆえ信号が多く、頻繁に立ち止まらないといけないという散歩に不向きな地である。更に言えば、観光客も多く、道は混雑し歩きにくい。そんなわけで、歩き易さと緑の豊富さ、人の少なさを考慮して、最初の頃は奈良に足しげく通った。 散歩の折々に、下調べも兼ねてガイドブックや歴史書を読んだり、奈良に住む人の話を聞いたりして、色々知識も増えたので、東京に帰ってからこのパソコン絵画徒然草にエピソードを書くかもしれないと思い、途中から散歩の記録をまじめに作り始めた。また、それを元に読み切りの形に編集し直し、東京にいる家族に送ったりもしていた。昨年東京に戻って以降は、当時のメモに更に肉付けしコツコツと整理し続けた。こうして出来たものを今後1年間、奈良の紹介かたがた綴っていこうと考えている。 あらかじめお断りしておくが、私が奈良に通っていたのは2014年後半から2016年前半にかけてのことであり、現在では色々事情が変わっているかもしれない。現在どうなっているかまでは調べ切れないため、あくまでも当時の記録として書くことをご容赦願いたい。 さて、初回となる今回だが、最初に奈良に行った時の話を書きたい。 季節は転勤早々の8月半ばで、まだ暑い盛りだった。最初から詳細に計画して行ったのではなく、まずは交通手段の確認と、人や車の多さがどれくらいかを見ようと、休日の午後に思い立ってふらりと出掛けた。 JR環状線に乗って鶴橋という駅に出て、そこから近鉄に乗り換える。奈良の見どころは沢山あるが、まずは最もポピュラーな近鉄奈良駅に行くことにした。ここは若草山(わかくさやま)、春日山(かすがやま)の麓にあたり、近くに東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうふくじ)、春日大社(かすがたいしゃ)が集まる奈良観光の中心スポットである。 ![]() 鶴橋から近鉄奈良駅までは急行で行ったが、30分少々の時間である。快速を使えば30分を切るようで、東京の感覚からすれば充分通勤圏内だろう。奈良から大阪に通勤していると聞くと随分遠距離通勤という印象を受けるのだが、東京のサラリーマンにしてみれば大したことのない通勤時間である。東京中心に物事を考えていると、距離や時間の感覚を誤る好例かもしれない。 同じ古都でも、奈良と京都の印象は大きく異なる。京都は古都と言いながら、中心部は大きなビルが林立する近代都市で、地下鉄も東西南北に広がっている。一方奈良は、景観規制が非常に厳しく、高いビルは建てられないし、地下鉄もない。お蔭で、全国展開する有名ショップが入った大規模商業施設は見当たらない。地元の人に言わせると、どこからでも若草山が見えないといけないらしい。古き良き都を愛する奈良の人の気概を感じさせる話である。 行き当たりばったりの訪問だったので、特にこれといったプランはなく、まずは近鉄奈良駅に置いてあった市内地図と、各地区のウォーキングコースを書いたパンフレットを貰い、地上に出てから商店街を抜け、猿沢池(さるさわのいけ)まで行って、ベンチに座って地図を広げた。わざわざ遠くから観光に来た人に比べると、何とも気楽でいい加減な旅である。 猿沢池自体が有名な奈良の観光スポットである。周囲が400メートルに満たない小さな池なのだが、ここから木立越しに興福寺の五重塔が見える。その様子が何とも奈良らしい風情で、観光ガイドブックには頻繁に登場する光景である。 ![]() 奈良散歩初日とあって、あまり遠くは目指さず、距離感をつかむため近場を回ることにした。酷暑の中での道行きなので、消耗も激しかろうと思ってのことである。 この近くにある有名な寺院と言えば、ほかに東大寺があるが、東大寺には塔がない。いや、正確に言えば、かつてはあったが失われてしまった。そんな話は聞いたことがないという人も多かろうが、かつて東大寺大仏殿の東南と南西に七重の塔が建っていたらしい。 二つの塔のうち、西の塔は、平安時代半ばに落雷で焼失した。東の塔は平安時代末期に平清盛(たいらのきよもり)の命により平氏が東大寺、興福寺などの寺院を焼討ちにした、いわゆる南都焼討(なんとやきうち)によりに焼かれ、鎌倉時代に一旦再建されたものの、室町時代初期に再び落雷で焼失した。この後は東西両塔とも再建されないまま今日に至っている。従って、この辺りに今なおある塔と言えば、興福寺の五重塔だけということになる。 ところで、この猿沢池は、川もないのにどうしてここにポツンとあるのだろうと不思議な気分にさせられる池である。それもそのはず、人工の池なのだそうだ。しかし、近代になって造られたものではない。平城京の時代に造られたのである。そして造られた理由は、興福寺が放生会(ほうじょうえ)という行事を行うのに必要だったからというものである。 放生会は、殺生を戒めるための仏教行事で、捕らえた動物や魚を自然に返してやる儀式である。これは興福寺に限らず様々な寺院で行われたようだが、興福寺でやろうとしても魚を放す池がない。そこで猿沢池を造ったという次第である。 この猿沢池には、七不思議というのが伝わっている。池のほとりに解説板があるが、猿沢池は、「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙(かわず)はわかず、藻は生(は)えず、魚が七分に水三分」と言われている。確かに、この池につながる川はない。しかし、水がひどく濁っているわけではないし、勿論澄んでいるわけでもない。カエルは見掛けないし、藻がびっしりというわけでもない。そして、放生会で魚を放っているわりには、魚が増え過ぎない。不思議と言えば不思議である。 もう一つこの池には言い伝えがある。これも池の傍らに解説板がある。平城京の時代に、宮中で天皇に食事や身の回りの世話をする采女(うねめ)の一人が、天皇に気に入られ寵愛を受けたが、やがて天皇の関心が薄れたことを悲観して、月夜にこの猿沢池に身を投げて死んだのである。彼女の霊を慰めるため、中秋の名月に猿沢池に竜頭船で漕ぎ出し、船上から池に花扇を浮かべるという行事が行われるようになった。これは元々、七夕に花扇を御所の池に浮かべて風雅を楽しんだという故事に基づくものらしい。現在でも采女祭(うねめまつり)としてこの猿沢池で毎年秋に行われているようだ。 さて、猿沢池のほとりから石段を登って興福寺境内に出る。 ![]() 興福寺は改めて紹介する必要がないほど有名な寺院である。有力貴族藤原氏の氏寺であり、平城京への遷都の年に藤原不比等(ふじわらのふひと)が建てたものである。ただ、ここにいきなり氏寺を建てたのではなく、平城京の前の都だった藤原京(ふじわらきょう)において藤原氏の氏寺とされていた厩坂寺(うまやさかでら)を当地に移して来たのである。その厩坂寺にも前身があり、藤原氏の祖であり大化の改新(たいかのかいしん)の立役者でもある中臣鎌足(なかとみのかまたり/後の藤原鎌足)の夫人が、夫の病気平癒を祈願して建てた山階寺(やましなでら)がそもそもの始まりと言われている。興福寺のその後の繁栄を考えれば、出世魚ならぬ出世寺と言えるかもしれない。 興福寺はその後、藤原氏の隆盛に伴って寺勢を拡大し、藤原氏絶頂期の平安時代には、現在の奈良盆地はほぼ興福寺の勢力下というまでになる。経済力だけでなく、多数の僧兵を抱えて軍事力・政治力も身に付け、平安時代にはたびたび朝廷に強訴(ごうそ)に及んだ。そのお蔭で、比叡山延暦寺とともに南都北嶺(なんとほくれい)として恐れられたことは有名だ。南都は興福寺、北嶺は延暦寺のことである。 平安時代が終わり武士の世になると藤原氏の力は弱まるが、経済力と軍事力を持つ興福寺は戦国時代においてもなお強い勢力を誇り、お蔭でここには守護大名は置かれていない。興福寺が武士に屈するのは織田信長や豊臣秀吉の台頭を待たなければならないのである。 さて、興福寺から先のルートをどう行くかであるが、東に春日大社、北東に東大寺がある。距離から言って、そのまま春日大社、東大寺と回ると、健康管理を兼ねた散策としてはもの足りないため、春日山を南側に回り込んで春日大社に行くコースを取ることにした。 観光客にエサをねだる鹿を見やりながら、興福寺から奈良公園を横切り、浮見堂(うきみどう)を目指す。この施設はどこかの寺社のものかと一見勘違いするが、奈良公園の休憩施設らしい。それにしてもなかなか風情のある景観で、これも絵葉書などによく登場するスポットである。ここで暫し休憩をして、この先の道を確かめる。 ![]() 浮見堂に座り、持参したお茶を飲んで一服した後、浮見堂から春日山沿いに西に向かい、志賀直哉旧居(しがなおやきゅうきょ)を目指す。この辺りの地名を高畑(たかばたけ)といい、かつては春日大社に使える神官や社務に従事した人たちが住んでいたというエリアである。今では閑静な住宅街になっており、志賀直哉がかつて住んだ邸宅はその一角にある。 志賀直哉は、明治から昭和にかけて活躍した小説家だが、生涯で30回近く引越しをしたらしい。ただ、この高畑には10年ほど住んでいたようで、比較的長くいた部類かもしれない。家の設計は志賀直哉自らがして、京都の大工さんが建てたと聞く。現在は私立大学の施設になっている。 志賀直哉というと、簡潔で無駄のない文体が有名で、神様と崇められることも多い文章の達人である。私もあんなふうに書ければよいなぁと思うが、到底足元にも及ばない。ちなみに代表作の「暗夜行路」はこの邸宅で完成したと伝えられる。 この邸宅には、小説家の谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や小林多喜二(こばやしたきじ)のほか、評論家の小林秀雄(こばやしひでお)や亀井勝一郎(かめいかついちろう)など錚々たる文芸関係者がたびたび訪れ、文学論に花が咲いたという。また文学以外でも、日本画家の堂本印象(どうもといんしょう)や写真家の入江泰吉(いりえたいきち)も出入りし、芸術も含めて文化全般にわたって議論が盛り上がったようだ。こうした交流を通じて、この邸宅は高畑サロンと呼ばれるようになったという。 ところで、ここを訪ねて来たのは志賀直哉を慕ってのことではなく、この向かい側から春日大社に延びている「下の禰宜道(しものねぎみち)」の入り口を見つけるためである。 下の禰宜道は、元は春日大社の神官や社務職の人たちの通勤路で、高畑の住まいからこの道を通って春日大社に通ったと言われている。ガイドブックなどを見ると「ささやきの小径」というしゃれた名前で紹介されているが、名前の由来は定かではない。 ![]() 実際に道をたどると完全な山道で、勾配はゆるいが女性がハイヒールで歩くのには向かない。ささやきの小径と聞くと何やらロマンチックな響きがあるが、それにつられてやって来るとイメージが違うと思う。道の上には樹木が鬱蒼と生い茂り、静かで寂しい道である。 この下の禰宜道が通っている森は、春日山原始林(かすがやまげんしりん)と呼ばれる原生林で、春日大社の神域である。従って、昔から樹木の伐採や野生動物の猟が禁止されて来た。そのため自然のままの植生が残っており、学術上も貴重だと言われている。現在は、国の天然記念物であると同時に、この森自体が世界遺産になっている。 さて、そんな原生林の山道にも鹿がいるところが奈良らしい。よく知られていることだが、鹿は春日大社における神の使いであり、奈良では神聖な生き物とされる。春日大社は、いわずと知れた藤原氏の氏神を祀った神社で、藤原氏の守護神は白い鹿に乗ってやって来たとされている。 その守護神だが、どこからやって来たかというと、茨城県の鹿島神宮(かしまじんぐう)からである。鹿島神宮の主祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、藤原氏の守護神であり、春日大社の主祭神である。 日本神話によれば、武甕槌命は雷と剣の神であり、伝承から見ると軍神である。出雲の神を屈服させ、関東・東北を平定した戦いの神が、どうして藤原氏の氏神なのか疑問が湧く。 初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)が九州から近畿圏に勢力を延ばそうとした時、地元豪族の抵抗に遭って大いに苦戦したが、この武甕槌命が天から神剣を神武天皇に渡し、これを手に取った神武天皇が一気に形勢を逆転させたという話が、日本神話の神武東征(じんむとうせい)に出て来る。この初代天皇の窮地を救ったというところが、藤原氏の権威づけに使われたのだろうか。 奈良公園近辺では至るところにいる鹿だが、原生林の中で出会うとまた新鮮な感じがする。倒木の樹皮を食べていたが、こうした習性が日本各地の鹿被害につながっているのだなと思いながら暫し眺めた。奈良の鹿は野生であるが、人に馴れているので、傍らに行ってカメラを構えても全く動じない。古代より地元の人に大事にされ続けて来た分、人間のことを何とも思っていないのだろう。 下の禰宜道自体はたいした距離ではなく、上り調子の山道を暫く行くと春日神社の二の鳥居辺りに出る。観光客なら本殿にお参りするのだろうが、私は散歩が目的なので、一旦参道を下って春日山の麓まで降りる。 ![]() 万歩計を確かめると、思った通り一万歩にはまだ届かない。そのまま北上して、東大寺まで足を延ばす。春日大社の参道入り口から東大寺までは1kmもない。観光客で賑わう中を、寄って来るたくさんの鹿をやり過ごしながら歩く。浮見堂から高畑辺りは観光客も少なかったが、さすがに奈良観光の目玉の東大寺ともなるとたくさんの観光客がいて、とりわけ外国人の姿が目立つ。ヘタをすると、飛び交う言葉は日本語よりも外国語の方が多いのかもしれない。 外国人の皆さんは、鹿と写真を撮るのに熱心である。餌で釣ったり、休んでいる鹿にそっと近付いたり、様々に作戦を立てているようだが、鹿は気まぐれなので、いざシャッターを押そうとすると逃げられたりする。そのたびに歓声と悲鳴が湧く。そんなハプニングもまた楽しそうだ。 東大寺も、興福寺同様、今更説明を要しないほど有名なお寺である。奈良と言えば大仏、大仏と言えば東大寺というわけで、事実上、奈良の代名詞である。世に「大仏商法」という言葉があり、放っておいても大仏見たさに客が訪れるので、奈良の人は積極的に観光客誘致をしないなどと揶揄されて来た。その奈良の人の気質の真偽はともかく、奈良を訪れる観光客の目的の大半が大仏にあるのは間違いなかろう。 ところで、東大寺というのは、寺が先か大仏が先かというのを考えたことがあるだろうか。事実上一体のものとして捉えているので、誕生は同時だろうと思っている人が多いが、実際は寺が出来たのが先なのである。 奈良時代に東大寺を造ったのは聖武天皇(しょうむてんのう)というのは歴史の教科書に出ているが、ことの発端は息子の急死である。 聖武天皇に待望の男子である基親王(もといしんのう)が生まれたものの、わずか1歳で夭折する。この子の菩提を弔うために若草山の麓に建てられたのが金鐘山寺(きんしょうせんじ)であり、これが東大寺の発祥とされている。住持となったのは、のちの東大寺初代別当となる良弁(ろうべん)である。この金鐘山寺があったのは、現在の二月堂(にがつどう)付近とされており、二月堂の近くにある法華堂(ほっけどう)、通称三月堂(さんがつどう)は、金鐘山寺の堂宇の一つだったと考えられている。 災害や疫病が続く中、聖武天皇は深く仏教に帰依し、全国各地に国家鎮守のための国分寺(こくぶんじ)を造ることにした。これにより金鐘山寺は大和国の国分寺となり、金光明寺(こんこうみょうじ)となる。 一方大仏の方は、国分寺建立の詔(みことのり)の2年後に、有名な盧舎那仏像の建立の詔(るしゃなぶつぞうこんりゅうのみことのり)が出され、実際に大仏が造られ始めるのがその2年後、完成して開眼供養会(かいげんくようえ)が行われるのは9年後ということになる。 ![]() ところで、面白い話としては、この大仏、当初はここに置くことにはなっていなかったのである。今の滋賀県の甲賀市(こうかし)に置かれる予定で建設計画が進んでいたらしい。 甲賀市は、伊賀と並んで忍者の故郷として有名で、正しい読み方は「こうが」ではなく「こうか」と濁らない。この甲賀市には焼き物で有名な信楽(しがらき)があるのだが、聖武天皇は信楽に副首都を建設していたのである。名前を紫香楽宮(しがらきのみや)という。聖武天皇が当初大仏を建設しようとしていたのは、この紫香楽宮近くの甲賀寺という寺院だったようだ。 私は後日、この甲賀寺の跡を訪ねたことがある。市街地から外れた山べりの山林内に遺構があり、林の中の広場に礎石などが残っている。現地に立つ説明板によれば、この場所は当初、紫香楽宮の遺構だと思われていたようだが、発掘の結果、大仏を建立しようとしていた場所だったことが分かったと記されている。 聖武天皇が盧舎那仏像の建立の詔を発したのも奈良ではなくこの地だし、実際に大仏の芯柱を建てる儀式が行われ、聖武天皇も出席している。その後、順調に建設は進んでいたようだが、紫香楽宮が廃都になるのと同時に中止され、奈良で改めて大仏を造り直すことになったようだ。現地の説明板には、その理由は記されていなかった。 現在の甲賀寺跡は、小さな社と広い空き地が広がるだけの寂しい場所である。下の写真がその現地の様子であるが、ここに立ってみて、建設途上だった大仏のことをあれこれと想像してみた。 ![]() 仮に当初計画通りになっていたら、東大寺に大仏はなく、現在とは大いに異なった景色になっていただろう。一方甲賀市の方は、忍者や信楽焼きだけでなく大仏でも有名になっていたことになる。仮にそうなっていたら、大仏商法がきかない奈良の人たちがどうしていたのか、なかなか興味深い。大仏建立場所の判断の差でその後の奈良の運命が変わったであろうことを考えれば、歴史なんてものは、幾つもの重要な分岐点の選択が偶然によって左右されていることに気付かされる。 そもそも、大仏がここに造られるように計画が変更されたあたりから、寺は東大寺と呼ばれるようになったという。つまり大仏が当初計画通りに紫香楽宮に造られていたら、東大寺という寺そのものがなかったことになるのだろうか。奈良のシンボルである寺院の、あまりにも偶然に左右された運命を考えると、何とも不思議な思いに駆られる。 さて、東大寺も散歩の目的地として来ただけなので、その問題の大仏にはお参りせず、西にそれて戒壇堂(かいだんどう)の方向に行く。知名度でいけば、お水取りで有名な二月堂に向かう東方向に道をたどるのが観光の常道だろうが、団体観光客が大勢で向かっていたので、気持ちが萎えてこの日はやめた。二月堂の紹介は、お水取りの話を交えながら、またの機会に書くことにする。 本堂をひとたび離れ戒壇堂の方に向かうと、一気に人が少なくなり、静かな道行きとなる。観光客が集まる奈良公園周辺も、少し路地へ入れば古い町並みの中の静寂を味わえる。 東大寺戒壇堂は、有名な鑑真和上(がんじんわじょう)ゆかりの施設である。戒壇とは平たく言えば、僧侶になるための資格付与を行う施設である。 当たり前だが、仏教は大陸から伝えられたものなので、当時の日本にはこの施設がなかった。自前の僧侶養成施設を設立するために、請われて大陸からやって来たのが鑑真である。幾たびもの渡航失敗の中で両目を失明した話は有名だが、ようやく日本に上陸した鑑真は、まず福岡の大宰府近くに最初の戒壇を作り、その後平城京に到着し東大寺に滞在する。東大寺にも戒壇を設けて多くの僧侶に戒律を授けたが、日本に来てから10年余りで亡くなっている。 ![]() そうして考えると、東大寺戒壇堂は非情に重要な施設だが、人々は展望が利く二月堂の方に流れ、ここに来る観光客はほんのわずかである。同じ鑑真でも唐招提寺(とうしょうだいじ)の方は人気が高いが、あのお寺の現在の姿は鑑真の死後に整えられたものである。そういう意味では、まさに鑑真が活躍していたこの戒壇堂は、大いに意義があるような気がするが、どうだろうか。 東大寺戒壇堂からは、そのまま街中を歩いて近鉄奈良駅へ向かった。ここまでのコースで約1万歩となる。ただ、春日山周辺はアップダウンがあるため、平地を歩くのに比べてエネルギーを使う。実際には1万歩以上のカロリーを使ったと思ってよいだろう。 この日は、奈良の観光客の多さや道の混み具合を確認して、まずまずの感触を得た。最も混む場所でこれくらいの人出だとすれば、奈良は週末歩くのには良い場所だと実感した。これを契機にあちこち出掛けることになるのだが、そんな話をこれから1年かけて少しずつ書いていくことにしよう。 |
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