パソコン絵画徒然草

== 4月に徒然なるまま考えたこと ==





4月 3日(木) 「東山魁夷展」

 この前の土曜日は、天気も良くちょうど桜の見頃だった。春の陽気に誘われて、千鳥が淵の花見方々、北の丸の国立近代美術館まで「東山魁夷展」を見に出掛けた。東山魁夷は明治41(1908)年生まれなので、ちょうど今年で生誕100年ということらしい。それを記念した大規模な展覧会で、彼の作品群の中から代表作を中心にまとめられている。もちろん多作ゆえ抜けているシリーズもあるが、彼の画業を概ねカバーしており、よくまとまっていると思う。音声ガイドも、彼自身が生前に録音した作品解説を取り入れており、作者の肉声を聞きながら鑑賞できる。

 今まで何度か東山魁夷展に足を運んだことがあるが、いつも会場はたくさんの閲覧者で混雑している。盛況の展覧会は他にもあるが、東山魁夷展の混み方は格別である。これに匹敵するくらい毎回客を集めるのは、私の知る限り上村松園展くらいだろうか。今回も、初日に朝の開場と同時に行ったが、いきなり長蛇の列で入場制限がかかっており、どうなることかと心配した。ただ、列が出来たのは最初だけのようで、見終わって出て来る頃には列は解消していた。

 過去、東山魁夷展に何度か足を運んでいるうちにほとんどの作品は実物を見てしまっており、今では初見の作品は、ごく初期の作品やスケッチ類を除きほぼないといっていい。今回も、見たことのない作品が展示されているから行ったのではなく、久し振りに東山作品に再会したいと思って出掛けたのである。

 東山魁夷の作品の魅力は、語り出せば色々あるし、私も日本画を描いていた頃に少なからず影響を受けた。定番商品のような安心感のある作風を見ていると、毎年無数に排出される日本画家の中で、よくぞスターダムにのし上がったと感心したりもするのだが、そこにこそ、彼が国民画家となった秘密が隠されているような気がしてならない。

 ご存知のように、東山魁夷の作品はある意味で地味である。強力な刺激もないし、心騒がすような躍動感があるわけでもない。戦後の日本画家たちが意匠を凝らして切り開いてきた非日本画的要素もなければ、実験的で大胆な表現技法もない。そうした新進気鋭の画家たちが「動」だとすれば、東山魁夷は「静」の画家である。おそらく彼は、そうした革命的な画家たちとは違うものを追いかけていたのだろう。

 不遜を承知で言うなら、東山魁夷の作品に技法の凄さを感じることは余りない。プロの日本画家を目指す者なら、努力次第で到達できる技術領域ではなかろうかと思う。そうした意味では、神がかり的な天才肌の技法家といった面影はない。

 けれど、彼が到達した精神的な領域は、ちょっとやそっとではたどりつけない気がする。彼は、多くの鑑賞者に安心とやすらぎをもたらす精神世界を築き、万人を惹き付けた。それは意識して作った作為の世界ではなく、彼の生い立ちや人生経験がそのまま作品に反映されて出来上がったものだろう。だからこそ、他人がおいそれと真似出来ないのだと思う。表面的な画風は真似られても、精神領域まではコピーできない。それが東山魁夷を東山魁夷たらしめている所以である。

 裕福な家庭に生まれ、何一つ不自由なく育ち、順風満帆の人生を送った者にはああいう世界は作れない。東山魁夷の作品を通じて、その精神世界のバックボーンにあるものが伝わるからこそ、見る人々は共感するのである。彼が到達した「諦念と祈りの世界」を、大抵の人は心の中に持っている。それは生きる悲しみであり、その果てに求める安らぎである。どんな絵画技法を持ってしても太刀打ち不可能な精神領域がそこにある。

 作品とは画家の生き様そのものであり、人生の厚みが作品の深さに通じる。久し振りに東山魁夷の作品群を見て、改めてそう思った。




4月 9日(水) 「作品は何故続くのか」

 「休日画廊」は今までのところ、毎週一枚のペースを殆ど崩さずに作品をリリースし続けているが、これは前にも書いたとおり、義務として自分に課しているわけではない。何となく週末ごとに作品が出来ているのであり、それを展示しているに過ぎない。必ず毎週末に新作を展示しなければならないと義務化してしまうと、強迫観念にかられて却って描けなくなるのではないかと恐れている。

 かといって、毎週問題なくスラスラと絵が描けているのかと問われると、必ずしもそういうわけではない。あるときはうまく行かずにお蔵入りする絵もあるし、難なく描けてしまう絵もある。問題は、描き始める前にその予想がつかないことである。

 画題を思い付くのは、平日のこともあれば週末のこともある。週末だと、散歩の途上で何かを見て触発されたり、家の中で全く絵とは関係のないことをしていてふと思い付いたり。平日だと、通勤途上でふと心に浮かぶこともあれば、仕事の合間にひらめくこともある。とにかく法則性はない。これをすれば画題が拾えるという習慣があるわけではないから、時間があっても画題がなく、何も描けないときもある。

 更に、描き始めに当たり、これはスラスラ描けそうだと思いながら、途中で難渋し、最後は行き詰ってしまうこともある。逆に、コイツは骨の折れる題材だぞと気を引き締めてかかると、意外にドンドン筆がはかどり、思いのほか短い時間で完成してしまうケースもある。まぁ要するに、一言で言えばきまぐれなのである。

 まるで予測のつかない私の絵画制作だが、それでも週末になると展示できる絵が一枚は出来ているというところが、我ながら面白い。他人事のように言っているが、私自身にも何とも不思議なのである。

 よく締切りに追われた小説家が苦しむ話をエッセイなどで読むが、その気持ち分かる気がする。一つの絵を完成させるのに、同じルートをたどって出来るケースなどないから、これが仕事として義務付けられていたら、胃が痛むような苦痛を味わうのではないかと思うのだ。

 例えば職人が同じものを手作りで作る場合、その日の体調やら材料の具合やらで調子の悪い日はあるだろうが、概ね同じ工程で段階を踏んでいけば完成するという目安はあるだろう。だが、絵画制作なんていうのは、最初からこれを描いてくれという依頼があるイラストの場合は別として、こうやれば必ず良い画題が見つけられて、それをこう描けば満足の行く作品が出来るという、約束された手順はない。経験や技術はあっても、毎回試行錯誤は付き物である。だから期限を予め定めて誰かに作品を引き渡すなんて状態に自分を置いたら、きっとくだんの小説家諸氏と同じようにもだえ苦しむに違いない。週末に作品更新することを自らに課さないのは、そんな理由によるものである。

 趣味の中には、最初から楽しいことが約束されているものもある。映画を見るとか、コンサートに行くとか、好きな本を読むとか、おおよそもだえ苦しむ要素はどこにもない。それに比べて絵を描くというのは、最初から最後まで楽しいこと尽くめというわけではない。描いているうちにジワリと楽しさが滲み出て来る。そんなところが実感ではないか。

 思えば因果な趣味であるが、それなのにどうして毎週の如く帳尻が合って作品が出来るのか。かれこれ6年以上「休日画廊」を運営しているが、こればかりはよく分からない。あるいは、今月辺りでも、突然作品が途切れてしまうときが来るのだろうか。それはそのときになってみないと分からないのだが、いつ来てもおかしくない作品の断絶を視野の片隅に置きながら、それでも焦らず気の向くまま制作の機運が盛り上がるのを待つ。絵の神様が微笑まなくなったときが作品の切れ目なのだろうが、さてそれはいつのことか。

「うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。
 私は詩として私自身を表現しなければならない。
 それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである。」(草木塔/種田山頭火)




4月15日(火) 「モナ・リザ」

 ちょっと前の話だが、ドイツのハイデルベルク大学図書館が、レオナルド・ダビンチ作の名画「モナ・リザ」のモデルを特定する証拠を見つけたというニュースが話題になっていた。それが誰かという点ではさして意外感はなく、前から言われていたフィレンツェの豪商の妻リザ・デル・ジョコンドだったということなのだが、それを裏付ける証拠として、当時の図書館蔵書の欄外にフィレンツェの役人が「ダビンチは現在リザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作中」という書き込みをしていたのを、図書館職員が最近発見したというところがビッグニュースというわけである。

 名画として親しまれている肖像画のモデルがいったいどういう境遇の人かで話題を呼ぶケースは他にもあり、有名なものではフェルメールの「真珠の耳飾りの女」が挙げられる。青いターバンを巻いてこちらを見る、謎めいた少女の絵は、誰でも一度は目にしたことがあるはずだ。

 トレイシー・シュヴァリエがこの絵を題材にした「真珠の耳飾りの少女」という小説を書いて話題になり、映画まで制作されたが、この小説にあるように、フェルメール家の女中がモデルで、フェルメールとの間に淡い恋愛物語があったなんていう話には、何の証拠もない。他の説としては、若くして亡くなったフェルメールの娘だったのではないかという説もある。ただ、そもそもモデルなんていなかったのでは、なんて説もあるから、どれもあてにはならない。

 さて、「モナ・リザ」の話に戻るが、このニュースがあっという間に世界を駆け巡り、日本の新聞にも取り上げられたというところに、「モナ・リザ」の凄さが感じられる。「さすがは世界の恋人」と感心したのは、私だけではあるまい。

 そう言いつつ、私は「モナ・リザ」のファンというわけではなく、ルーブル美術館でしげしげと見たのは最初の1回だけである。2回目は家族と一緒だったから、まぁその輪の中に加わり後ろの方から見て、3回目は遠めに見て、立ち止まらずに通り過ぎた(笑)。

「モナ・リザ」のために言っておくが、ルーブルの三大人気展示品の他の二つ「サモトラケのニケ」と「ミロのビーナス」も同じ扱いで、「サモトラケのニケ」こそ階段の途中にあるからわざわざ見に行かなくても毎度目に入るが、「ミロのビーナス」は3回目に行ったときには見もしなかった。

「モナ・リザ」は、謎の微笑とか、どの角度から見ても自分の方を見ているように見えるとか(現地で試す人多し)、その魅力が高らかに喧伝されて来た。私も傑作だとは思うが、何だかその存在がお化けのようにデカくなっていて、ちょっと違和感を覚えるのである。

 この「モナ・リザ」の存在感の巨大さを考えると、私はいつも行列の出来るうまい店を思い出す。この種の店は、確かに平均よりおいしいが、例えば1時間並んで食べる価値がある程おいしいかと問われると、「ちょっとそこまでは」という気がするケースが多い。それでもみんながおいしいと口々に言うのは、その店に随分長い時間並んだ自分の選択を考えると、「さしたることはなかった」なんて思えない、あるいは思うこと自体、自分の失敗を認めるようで嫌だという心理が働いて、その味を過大評価しているのではないかと思うのである。

 「モナ・リザ」も、ルーブル美術館のあの人だかりを見ていると、何かそんなところがあるんじゃないかなと思っていたのだが、モデルの正体が判明したという今回のニュースの扱いを見ていて、益々その観が強くなった。

 ちなみに私はルーブル美術館で、誰もいない中、一人ソファーに座りながらコローの「モルトフォンテーヌの思い出」を見るのが好きである。




4月23日(水) 「ある時代の翳り」

 2月のネット関係のビッグ・ニュースの一つとして、米国でMicrosoftがYahooに対して買収提案を行ったという話があった。ともにIT関連企業としては世界に名をとどろかせるビッグ・ネーム同士の上、Microsoftが提示した1株当たりの買収金額がYahoo株の時価を62%も上回る水準で、買収総額が446億ドル(約4兆7500億円)という途方もない金額だったことも人目を引いた。

 このとき関連記事を読んで感慨深く思ったのは、MicrosoftとYahooというコンピュータ・ソフトとインターネットの覇者が、今やGoogleに押されて昔日の面影を失いつつあるということだった。Yahooは昨年6月に創業者のジェリー・ヤン氏をCEOに復帰させ再起を期したが、宣伝収入は低迷し1月には千人のレイオフを発表したとも報じられている。

 GoogleはMicrosoftの買収提案に対して公式のコメントを出し、両社が合併することになればインスタント・メッセージとWebメールで圧倒的な地位を占めて競争を歪めるのではないかと懸念を示したが、Microsoftはこれに反論し、Web検索はGoogleが支配しており、自分達が合併して対抗しなければ競争の機会は減ると主張した。Microsoftから提案を受けたYahooは一旦検討を約したが、結局、提示された買収金額が低過ぎるとしてMicrosoftの買収提案を拒否した。けれど一連の騒動は、Microsoftの危機感とGoogleの存在感を改めて印象付けた気がする。

 私は一連の報道を日々追いかけながら、この「休日画廊」を立ち上げた頃のことを何度か思い出した。

 あの頃はまだ、ホームページというものが個人の情報発信のほぼ唯一の手段で、ブログなんて皆知らなかった。個人開設のホームページは、開設しただけでは大海の孤島みたいなもので、訪問者など殆どいない。人に知られるには何らかの宣伝が必要だった。そのジャンルの先駆者の方にリンクを張ってもらったり、皆が集まるポータル・サイトのようなところで掲示板にサイト開設の書き込みをしたり、個人サイトの管理人は、あれやこれやで人々に知ってもらおうとチャンスを覗っていたように思う。

 訪問者が増えると次第にそのジャンルでメジャーになるわけだが、単に訪問者が多いだけでなく、ネット上で何らかの認知を受けると、一気にステータスが上がった。そんな公式認定のうち、最も権威があるとされていたのがYahooのディレクトリー(カテゴリー)に登録されることだった。Yahooは検索サイトであり、あらゆるサイトを検索対象として網羅しているわけだが、その中からジャンル別に質の高いサイトを選んで、厳選サイト一覧のようなものを掲載していた。それがいわゆるディレクトリーで、各種の検索サイトはたいていこうした登録サイト・システムを持っていた。

 Yahooのディレクトリーに登録されることは、ホームページ管理人の夢と言うと大袈裟だが、その難しさは「東大に入るよりも難しい」と言われていた。そのためのテクニック解説や登録代行サービスもあって、栄えある登録サイトになると、トップページにYahooのディレクトリーに登録されている旨表示している管理人が多かった。まぁ一流サイトの証しといったところで、その表示が勲章のように誇らしげだった。

 「休日画廊」はどうかというと、一応登録依頼を出したが審査に落ちてダメだったように記憶している。そもそも地味なサイトだし、人目を引くところがなかったのだろう。めったなことでは審査に通らないという状態だったから、特に気落ちすることはなかったが、別の宣伝手段を講じないと、誰も訪問してくれないなぁと心配した覚えがある。

 そんなおり、たまたま私のホームペ−ジをディレクトリーに掲載してくれた検索サイトがあった。それがGoogleである。今でも、Googleのディレクトリーを「アート > ビジュアルアート > コンピュータ・グラフィックス > ギャラリー」とたどっていくと、79の登録サイトの一つに「休日画廊」がある。

 当時GoogleはYahooの陰に隠れていて、一般の人には馴染みがなかった。検索の早いことでは有名だったが、Yahooと違ってニュースやら天気予報やらの各種情報をトップページに掲載しないシンプルな作りだったので、あまり注目されていなかったように思う。私はGoogleがこんなに成長するとは思っていなかったので、ディレクトリーに掲載してくれたからといって、過度に感激はしなかった。今にして思えば罰当たりなことである。

 あれから何年経つのだろう。Yahooのディレクトリーはかつてほど注目されていないし、だいいち、Yahooのトップページからも消えてしまった。今ではポツンと「登録サイト」という表示があり、そこをクリックするとディレクトリーの目次が表われる。個人のホームページの存在感も次第に薄れていて、情報発信はブログの時代である。今どきこの登録サイトのカテゴリーをたどっていく人がどれだけいるのかも疑わしい。

 コンピュータの世界は、昔から「ドッグイヤー」と言われていて、現実の世界の7倍も速く時代が進むと言われているが、Yahooのディレクトリー登録をめぐる熱狂も、いつの間にやらすたれてしまった。登録されなかった身からすれば、それはどうでもよいことかもしれないが、MicrosoftのYahoo買収提案記事を見て、懐かしさとともにある種の感慨が湧いてきた。

 ホームページを通じてインターネットに参加していた時代は、既に過去のものになりつつある。あの頃のサイトのステータスというのも、今では意味をなさない。Yahooのディレクトリーに登録される日を夢見ながらサイトを充実させていた管理人の思いなど、今のブロガーには想像もつくまい。こんなに早く、価値観が変わってしまうなんて、想像も出来なかった。MicrosoftのYahoo買収劇の陰で、一つの時代が終わったんだなとしみじみ思った。Yahooだけでなく、個人のホームページの時代も、そろそろ終焉を迎えつつあるのかもしれない。




4月30日(水) 「上野池之端」

 あれは何年か前のゴールデン・ウィークのことだったと思う。よく晴れた心地よい春の休日、夫婦で上野池之端に出掛けた。目的は、不忍通り沿いの東大病院の裏側にある古い木造家屋である。近代日本画の礎を築いた一人の日本画家が、この背の高い木の塀に囲まれた家で後半生を過ごした。「横山大観記念館」の看板が掛かる門をくぐって中に入ると、この大画家の家の中を見学することが出来る。

 横山大観は、今でこそ巨匠として名声が確立しているが、画壇に登場したときには随分非難もされている。昔ながらの日本画の伝統を捨て、新しい日本画を目指したものの、その技法は「朦朧体」とか「化物体」と蔑称され、「こんなものは日本画ではない」と酷評されたりした。極め付けは、東京美術学校(今の東京芸大)の内紛で新しい日本画を目指す一派が糾弾され、岡倉天心達と一緒に追放された。追い出されたのは、横山大観のほか、下村観山ら今では明治・大正期の日本絵画史を飾る錚々たるメンバーである。逆に追い出した方のメンバーは、歴史に埋もれて忘れ去られ、一般の人達は名前すら知らない。

 私はいつも思うのだが、絵画史上の紛争では、負けて野に下った方が後世に名を残し、勝った方は歴史に埋もれて忘れ去られる例が多い。1855年のパリ万博で大々的な絵画展覧会が開催されたが、展示を断られたクールベは意地になって、万博会場前の建物を借り、万博と同額の入場料をとって自分の落選作を並べた個展を開いた。まるで、ドンキ・ホーテである。しかし、このときに出展した作品には、有名な「画家のアトリエ」や「オルナンの埋葬」があり、今ではともにオルセー美術館の重要な所蔵物となっている。

 時の主流派から迫害された者は、世間の冷たい視線を受けつつ不遇の時期を過ごす。横山大観らも例外ではない。東京美術学校を追い出された後、一派は茨城県の五浦に共同のアトリエを構えて制作を続ける。このとき、アトリエを共にした者達が結成した団体が「日本美術院」、今の「院展」である。上野の横山大観記念館には、「日本美術院」の流れを組む画家達の写真が並べられているが、その中には、現在の日本画壇の重鎮平山郁夫氏の写真も見える。

 その後、東京に戻った横山大観は、上野池之端に家を構え、そこで絵を描いた。これが今の「横山大観記念館」である。この家には、彼のアトリエだった部屋が、1階と2階にそれぞれ1つずつ残されている。体の具合の悪かった一時期を除いて、彼は2階のアトリエで絵を描いた。懐かしい感じのする木の階段を上がると、彼のアトリエだった日本間を自由に見学することが出来る。私が訪れたときには、その部屋には誰もおらず、夫婦で暫し部屋を眺め渡した。これといって何の変哲もない畳の間で、丁度地方の和風旅館の一室に通されたような錯覚を覚えた。

 私は窓近くの畳に座り、うららかな春の光を浴びた外の景色を眺めた。生前の横山大観も、こんなふうに窓辺に座って戸外を眺めたのだろうかと思うと、何やら不思議な気がした。大観は自分自身の波乱万丈の画業をどう思っていたのだろうか。酷評され美術学校から追い出された大観は、第一回の文化勲章受章者でもある。一旦主流から外された彼は、最終的には本流を形成する画壇の巨匠になった。そんなことを考えていたら、ふとボブ・ディランの「時代は変わる」という歌の一節を思い出した。

  今遅れているヤツでも
  後になれば速くなる

  今この時点も
  後になれば過去になるように
  順番なんか
  すぐに色あせてしまう

  今先頭を行くヤツも
  後になったらビリになる

  そう時代は変わっているんだ

 大観は、この家で昭和33年に息を引き取った。政府は、大観の画業を称え正三位勲一等旭日大綬章を贈った。美術学校を追い出された彼と仲間たちがアトリエを構えた茨城県は、彼を名誉県民とし、この家のある台東区は、彼を名誉区民第1号とし、その死を悼んだ。







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