パソコン絵画徒然草

== 1月に徒然なるまま考えたこと ==





1月 3日(木) 「年の初めに」

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

 年末年始に田舎に帰省していたので、「休日画廊」は3日になって漸く始動といったところである。と言っても、今のところ表紙絵を変えただけに過ぎないが…。

 実はこの休みのうちに色々考えて、今年からサイトの構成を少し変更してみようかと思っている。毎年のように思いつくだけで結局見送り続けた模様替えであるが、この辺りで舵を切ってもいいのではないかと思ったのである。とは言え、大幅な変更ではなく、気分転換方々プチ整形的に模様替えをしてみようという趣向で、中心になるのは展示室の構成である。

 従来の「休日画廊」は、作品を風景画、静物画、淡彩画、そして最近描いていないが習作画といった種類ごとに分けたうえで、部屋番号単位で管理し、制作順に連続で展示していっていた。これまでのところ、風景画は34室、静物画は31室、淡彩画は10室、習作が10室である。この展示方法は、公募展をまねて展示室を重ねていくという発想に基づくものだが、これでは年単位、季節単位の区切りがなくなってしまう。例えば、風景画の第10室と淡彩画の第10室とでは、展示室番号は同じでも、描かれた年、季節ともまるで違う。

 それで何か不都合でもあるのかと訊かれると、確たる問題点があるわけではないのだが、展示方法って他にも色々考えられるのではないかと思ったのである。例えば、1年単位の時間の流れで展示作品を区切っていく方式もあって、今年なら2008年の作品展示室、来年になれば2009年の展示室という具合にまとめることも出来る。更に、作品を種類別に風景画、静物画、淡彩画、習作画と分ける必要があるのかという気もする。1月にはこういう絵を描きましたという形で、風景画と静物画を区分せずに展示してもいいはずである。

 捕らぬ狸の皮算用をしても仕方ないが、今年1年無事に「休日画廊」が続いて、毎週1枚ずつ作品を制作し続けたとすると、ざっと50作品程度が新たに展示室に加わることになる。風景画5、静物画4、淡彩画1くらいの比率で描いたとすると、風景画25作品、静物画20作品、淡彩画5作品となる。これを従来通り、風景画、静物画、淡彩画といったジャンル分けで小部屋に分けて、それぞれ2008年の展示室その1、その2みたいに作ってもいいし、ジャンルを問わず各月ごとにまとめて展示する方法もある。それで何が変わるのかということになるとたいした変化があるわけではないが、管理人の立場から言えば、何か新しいことを始めたということで一種の気分転換になるのではないかと思ったのである。

 もう一つ前から気にかかっているのは「習作」である。これはもう随分以前から描いていない。パソコン絵画を描き始めた頃は、試行錯誤の連続だったから、その時々の実験作を記録に残しておこうと思ってこういうコーナーを設けた。しかし、ある程度描き進んでいき、自分なりの制作のスタイルが出来ると、習作的な制作はしなくなった。おそらくこの先、このコーナーに新たな作品が加わることはないのではないかと思っている。であれば、やめてもいいかなと考えている。

 東京に帰って来たばかりで、まだ細かいところまでは詰め切れていないのだが、この週末にじっくり考えてみようと思っている。しょせんは手元の積み木を積み替える程度の小さな変化に過ぎないが、ずっと同じスタイルでサイトを続けていると、時には何か新しいことをやってみたくなる。サイト立ち上げの頃なら次々新しいコンテンツを追加したのだろうが、今やそこまでの元気はない。あるいは、サイトをガラリと変えてしまう程の大変革をするには、捨てるものが多過ぎて二の足を踏んでしまうということかもしれない。来週ご訪問頂いた折には、いったい何が変わっているのか分からなかったりするのかもしれないが、まぁお楽しみに。




1月 8日(火) 「プチ整形」

 前回予告していたサイトのプチ整形をした。と言っても、展示室の構成を少しばかり変えたに過ぎない。やはり、あまり大きな冒険は出来ないなぁと反省する。

 今年から、風景画、静物画、淡彩画のようなジャンル分けをせず、月ごとに作品をまとめて展示することにした。2008年1月にはこんな絵を描いた、2月にはこんな絵といった形で展示室を毎月作っていく。そしてその月の表紙絵も一緒に展示することにした。

 展示作品の区分けについて、当初は色々な案が頭の中で渦巻いていたのだが、季節感でまとめていくという発想と、あとで見たときにこの月にはこんな絵を描いたんだなとすぐに分かるようにしたいという思いとが合わさって、最終的にこの案に落ち着いた。描いた絵が風景画であるのか静物画であるのかを分ける意味があまりない気がするし、過去、これはどちらに分類するのか迷ったものもあった。ならば、種類ごとに展示室を分ける必要もあるまいとも考えたわけである。

 最初からこの案にすっと行かなかったのは、絵の展示というのは、それだけでかなり重要な作業だからだ。現実の絵の展覧会において、出品作品をどう並べていくかは、主催者がかなり知恵を絞って決めているはずだ。無造作に並べられているように見える公募展ですら、作品の展示には工夫が凝らされているという。

 通常展示室には順路が定められている。比較的行き来自由な公募展でも、展示室には番号がふられているし、人の流れも計算に入れてあるに違いない。そうした想定順路に沿って絵を見ていく人に、展示作品が何を訴えかけ、どう心に響くのかを計算に入れずに絵を並べているとしたら、主催者として完全に失格である。オーケストラの編成で、楽器演奏者に「好きな所に適当に座って下さい」なんて言う指揮者はいないはずである。観客にとって最も美しく効果的に音が届くのを計算し尽くして楽器演奏者の配置が決められている。絵の展示だって、それと同じことである。

 だとすると、「休日画廊」にとって効果的な絵の展示というのは、月ごとに区切って風景画、静物画、淡彩画を混ぜて展示するという、一番単純な形でいいのだろうかと最初迷ったのである。けれど、最終的にこの時系列的なごった煮スタイルに決めたのは、私の場合その時々で感じたままを絵にしているので、描いた順番で並べて展示すれば、季節の移り変わり、対象物への興味の変遷をありのままに表せると思ったのである。後で振り返って作品を眺めた時にも、月ごとにまとめてあれば、その時々の絵にまつわる思い出などを容易に呼び戻せるとも期待した。

 ただ、今回の展示方法の変更で、昨年以前の展示方式とつながりが切れてしまった。それならいっそ、過去の展示作品はどこか別館でも作ってお蔵入りさせ、今年から新しい一歩を踏み出してもいいかなと一瞬思ったのだが、さすがにそこまで大胆に踏み切れなかった。そうするには捨てるものが多すぎたのである。

 個人のサイトの中には、それまでのコンテンツの蓄積をあっさり捨てて、ガラリと模様替えしてしまう思い切りのいいサイトもある。「休日画廊」の展示作品など、しょせん私の時々の覚書みたいなもので、これから描く作品を訪問者の方々に鑑賞して頂くに当たって、どうしても必要不可欠なものではない。だからバッサリ切ってもサイト運営上支障はないのだが、これが中々捨てられない。以前、ホームページ用に借りていたサーバーの容量が限界に近付いて展示作品数を削ったときも、完全には古い作品を捨て切れず、サムネイルだけは残すみたいな中途半端な形にしてしまった。

 結局、過去が捨てられないからサイトの模様替えを思い切って行うことが出来ない。それが、いつまでも変わらない「休日画廊」のスタイルの原因になっているのである。そうしたことを今回の模様替えで思い知ったうえで敢えて言うが、それでもこの先、何度か模様替えをしてみたいと思うに違いない。新しいものを追いつつ古いものが捨てられない。この堂々巡りは、あるいは自分自身の生き方にも共通しているのかもしれない。




1月16日(水) 「雪景色」

 正月に田舎に帰省してみると、一面の雪国だった。正月からかなりの積雪があるというのは珍しいことで、今年の冬は本格派と見た。夏が猛暑だったぶん、冬は厳冬ということか。季節の移り変わりがハッキリしているのはいいことだが、それに付いていく人間様の方は何かとつらい。

 東京に帰る日に、電車の窓の外に雪景色を見ながら、絵のことを考えた。

 田んぼや畑が一面雪で覆われて美しい。背景の山々も雪化粧しているうえ、低い雲が霧のように立ち込めて幽玄な雰囲気をかもし出している。そのまま切り取れば絵になりそうな景色の連続に、本を読むのを止めて暫し窓の外に見入った。

 以前なら、そのイメージを持ち帰って早速絵にしていたはずだ。白い幻想的な雪景色である。だが、最近はあまり描かなくなった。理由は、雪の白の陰影が液晶モニターだとよく見えないことを知ったからである。一度ノートパソコンで自分の雪景色の絵を見て愕然とした。それ以来、何とはなしに雪景色を題材にすることを避けている。

 最近では液晶モニターの性能が向上したようで、ブラウン管モニター並みにクリアに見えるものが普及しつつあるようだから、雪の絵も再開していい気がするのだが、あいにく現在パソコン絵画制作に使用しているモニターがブラウン管なものだから、制作しながら見え具合を確認することが出来ない。このままだと、今のモニターが壊れて替わりのブラウン管モニターが見つからなかったときまで待つしかないことになる。果たしていつのことやら…。

 雪景色といえば、もう一つ思い出がある。水彩画である。

 ひと頃、透明水彩に凝っていた。透明水彩というのは面白いもので、白絵具は余り使わない。ひとたび白を投入すると色が濁って雰囲気を壊す。何より白は不透明色である。元々透明水彩には合わない。だが、自然の中には白がいっぱい出て来る。雲の白、雪の白、波頭の白。そうしたものは普通、白い絵具を塗るのではなく、水彩画紙の白を残す。

 雪景色の場合はどうなるかというと、こいつが難しい。画面の大半が雪の白だから、多くの塗り残しを出すことになる。雪の影やら土や草、枯れ木が見えている部分だけ絵具で色を付ける。雪という、作品の中心になる題材は描かずに、周辺部分だけを描いて雪を浮き立たせるのである。これは慣れないと中々難しい。お蔭で、満足した雪景色の作品はついぞ描けなかった。少々心残りな思い出である。

 そんなことをつらつら考えているうちに車窓の雪景色は終わった。東京に帰って来て、さてどうしたものかと考えあぐねている。描いたはいいが、今や主流の液晶モニターの方々にはうまく見えないのではしょうがない。そろそろ私も、ブラウン管派から液晶モニター派に転向した方がいいのだろうか。

 まぁ東京に雪が降って、もう一度美しい雪景色を見たら考えてみよう。展示室もプチ整形したことだし、今年は「休日画廊」も変革の年かもしれない。




1月24日(木) 「感動」

 新しい年を迎えて「休日画廊」も再び始動したが、かれこれ考えてみると、絵を描き始めて何年になるのだろう。もちろん、落書き程度なら幼児の頃からやっていたが、自分の描きたいものを絵具と筆で描き始めたのは大学生になってからである。数えてみれば、あれから30年近くになる。

 長い間絵を描いていると、最初の頃は見えなかったことが次第に分かって来る。今になって何度も噛み締めるのは、絵にとって大切なのは技術ではなく、感動だということである。

 私が絵を描き始めた頃は、何よりも技術を磨くことに熱心だった。空はどう描くか、木や森はどう表現すればいいのか、そんなことばかり考えていた。木なら木を集中的に描いて表現力を高めようとしたり、その種のテクニックを解説した本を読んだりした。技術というのは、やればやるだけ身に付く。そうして次第に描画力が上がって来ると、技術力だけで絵が描けるような気になる。だが、今になってみると、それは錯覚に過ぎないことが分かる。

 では、絵を描くために必要な感動とはどういうことだろうか。これは、人それぞれで答が違うかもしれない。

 私の場合は、日頃見慣れているものでも、初めて見たときのような新鮮な気持ちで接し、その美しさを実感することである。例えば、毎日何気なく見ている風景は、たとえ目に入ったとしても見る者の心の上面を滑っていくだけで、無意識のうちに通り過ぎてしまう。日常風景とはそんなものだ。それを、初めて見た風景のように観察し、そこに隠れた美を感じられるかどうかで、感動できるかどうかが決まる。画題を選ぶ時の決定打は、対象物にその感動があるか否かである。

 仮に、色バランスがいいとか構図がまとめやすいというだけで、形式的に画題を選んだとしよう。もちろん、技術力があればそれなりの作品は出来よう。だが、そこには主題に対する作者のこだわりがない。形ばかり見映えの良い作品は出来るが、深さはない。かくして、どうしても描きたいものがない絵は、どこかつまらなくなってしまう。描きたいものとは、すなわち主題に対する感動のはずである。描く者に「感動を見る人に伝えたい」というこだわりがなければ、作品との格闘はない。思い入れがなければ、感情移入もない。そうなると、作者は見る人に何も伝えられない。

 感動というのは、主題に対するこだわりを生み出す元であり、それを画面に表せるかどうかを巡って、作者は画面と格闘する。そして鑑賞する者は、その戦いの跡を画面から何となく感じ取る。絵画とイラストを分ける分水嶺は、その辺りにあるのではないか。

 全ての芸術は、人間の感動から成り立っている。音楽にせよ、美術にせよ同じである。見る人、聴く人が「これは芸術だ」と確信するとき、作者の感動を共有しているのである。描く技術とは、その感動を他人に伝える道具でしかない。道具はしょせん道具。良いに越したことはないが、それを使って何をするかが重要なのである。

 今年一年、また自分なりの感動探しの旅に出たいと思う。いつものことながら、感動の大きさは問わない。絵に描いてみたいと思う程度のものであれば、それで良いのである。なまじっか大きな感動を求めていると、小さな感動を見失ってしまう。私は、絵を描く原動力となる全ての感動を大事にしたい。対象物に感動する心がある限り、絵を描き続けていける気がするのである。




1月30日(水) 「目が肥える

 たちまち1月も終わりである。この前正月を祝ったと思ったのに、月日の経つのは早いものだと実感させられる。

 最近つくづく思うのだが、芸術に親しむことが少なくなった。いや、定期的に絵を描いているから、自分自身の作品制作という意味では以前とそう変わりはない。だが、鑑賞という面では、沢山の芸術作品に触れて、その背景や作者の制作意図に思いを馳せるようなことはあまりしなくなった。

 時間がないわけではないし、機会がないわけでもない。平日は働いているものの、休みは今のところきちんと取れるし、東京にいると国内・海外も含めて、膨大な量の展覧会がいつもどこかで開催されている。行く気になりさえすれば鑑賞の機会など幾らでも持てるのだが、どうもその気にならないままやり過ごしている。

 他の作品を見なくとも自分の作品は制作できる。作品鑑賞といっても、制作の手本を探すために展覧会に足を運んでいるわけではなく、単に絵を見ることを楽しむために出掛けている。してみると、美術から関心が離れたわけではなく、作品鑑賞自体にあまり強く惹かれなくなったということか。思い当たる節がないのだが、どうやらそういうことらしい。

 特定のテーマを掲げた企画展的な展覧会へ惹かれるというのは、私の場合、二つのケースがある。一つは、その画家自身が好きという場合である。これは無条件に展覧会に出掛けることになる。もう一つは、ある特定の作品を見たいと思って足を運ぶ場合である。これは、テレビや新聞・雑誌などでたまたま紹介されているのを見て、その作品に興味が湧くケースである。最近、展覧会へ行かなくなったのは、このいずれもが少なくなったということだろう。

 好きな画家ということでは、最近新規開拓しなくなった。古くからいる画家だと、色々な機会に紹介されるから何となく名前と作品を覚えるようになるが、新しく出て来た人だと、こちらから積極的に探さないと見つけられないことが多い。美術雑誌を見たり公募展に足を運ぶなど、何らか探す努力をしないと、贔屓の作家のレパートリーは次第に狭まることになる。

 ある特定の作品に注目する機会というのも、美術関連の番組や記事を意識して見ていないと、中々そのチャンスに恵まれない。私は、美術雑誌を講読してまでは読まないので、日常の中で未知の作品に触れる機会となると、テレビや新聞・雑誌など限られて来る。

 以前はどうやってドンドンと新しい画家や作品を開拓していたのだろうと不思議に思う。確かに公募展には結構行っていたが、今でも数が少なくなったとはいえ、足を運んでいないわけではない。テレビや新聞・雑誌にしても、取り立てて美術関係のトピックや記事が目に触れる機会が少なくなったとは思えない。以前と同じように見て、同じような情報に触れているはずだが、どうも惹かれるものが少なくなった。

 もしかして、目が肥えて要求水準が高くなったから、同じような情報に触れていても反応しなくなったのかなと、自己満足的に考えてみるのだが、仮にそうだとしたら、目が肥えるというのは決していいことではない気がする。従来なら良い刺激を受けた作品から、あまり刺激を受けなくなるということでもあるからだ。舌が肥えると美食家になって、以前ならおいしく頂けた物がそうでなくなるというのと同じである。

 しかし、目が肥えたところで、自分の作品の水準が上がるわけではない。悲しいかな、これは事実である。却って、自分の描く作品がつまらなく見えるようになったりしたら、作品制作にまで影響する。

 こうして見ると、目の肥えた人、舌の肥えた人というのは、案外不幸なのかもしれぬ。要求水準だけ高くなって、選択の幅が狭まって来る。普通の人が味わう満足感と同じ度合いの満足を得ようとすれば、それなりにハイレベルのものを探すために苦労しなければならない。幸福にせよ満足感にせよ、所詮は相対的なものだから、コストのかかる満足も、かからない満足も、本人の感覚としては同じ幸せ度だろう。

 いずれにせよ言えることは、誰でも自分なりの基準に正直ならば、幸福になり満足感を味わうチャンスはあるということである。そのためには、他人の満足の仕方をまねるのではなく、自分なりの満足の基準を大切にすることだ。自分なりの基準で幸せを味わう術を心得ている限り、金持ちが味わう満足感と庶民が味わう満足感で違いはないはずだ。もしかしたら、それが仏陀の教える悟りなのかもしれぬ。

 さて、目が肥えること、舌が肥えることを、仏陀ならどう言ったのだろうか。良いことか、悪いことか。一度聞いて見たい気がする。







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